「恋人のフリ?」
「失礼は重々承知の上です……どうか人助けだと思って……!」
そう言ってカウンター越しに深々と頭を下げるのは、喫茶ポアロの常連客のさんだった。
僕に話があると、わざわざ昼休みに職場を抜けてポアロに訪れたのだ。
普段は世間話くらいしか話さないが、いつも綺麗に身なりを整え、礼儀正しく笑顔が華やかな女性。
それがさんの印象だった。
「まずは落ち着いて、話を聞かせてくれませんか?」
注文してから一度も口にしていないアイスコーヒーを飲むようにさんに促す。
さんは顔を上げてアイスコーヒーを口に含むと、重々しく口を開いた。
「実は、職場で同僚の男性にしつこくアプローチを受けていて……」
何度も断っているんですけど、とため息をついた。
「コンプライアンスに違反する事なら上司に相談するべきじゃない?」
彼女の隣で聞き耳を立てていた、やたら博識な眼鏡の男の子はオレンジジュースを飲みながら小首を傾げた。
「コナン君は難しい事を知ってるね」
さんも素直に感心する。
2階の毛利探偵事務所で暮らしているからか、時折年齢に不相応な言葉を話すので、僕自身も驚かされる。
今日は小学校が短縮授業らしい。
コナン君はえへへと笑うと昼食のハムサンドを頬張った。
「業務には差支えがないだろう、って取り合ってもらえなかったの」
「大人って大変だね」
「それで試しに彼氏がいるって嘘ついたんだけど、信じてもらえなくて」
信じるも何も、実際にはいないのだから矛盾しているんですけどね、とさんは苦笑する。
大人が大変かどうかは別として、その上司は職務放棄しているのではないか。
問題はそこにもあると思う。
「安室さんの都合のつく日に、会社に迎えに来てくれるだけでいいんです」
交通費も、何なら日給も出します、と彼女は再び頭を下げた。
「お金で解決するならレンタル彼氏とかでもいいんじゃないの?どうして安室さんに?」
「コナン君は色々と詳しいね」
本当にどこでそんな知識を得てくるのか。
けれど、理由は僕も知りたいところだ。当事者になるか否かの問題なのだから。
「ズバリ!顔がいいからです!!」
予想外の安直な答えに思わず失笑した。
「安室さん程のイケメンなら、相手もぐぅの音も出ないでしょ」
「え〜、でもその安室さん程のイケメンが彼氏とか、かえって怪しまれない?」
「あ〜…やっぱり現実味がないかなぁ」
さり気なく失礼な事をコナン君は言っているが、さんは気が付いていないのか、素直に頭を抱える。
「いいですよ」
僕の返事にさんとコナン君は二人で顔を見合わせ、目を丸くした。
「僕でよければ引き受けますよ」
「ほ、本当ですか?!ありがとうございます!」
「早速なんですが、今日はシフト早上がりなんです。なんなら夕方迎えに行きますよ」
「お願いします、助かります……!」
ほっとしたのか、幾分かさんの表情が和らぐ。
まだ問題が解決した訳ではないが、余程困っていたのだろう。
男の方も一度断られたのだから潔く身を引くべきではないか。
彼女を悩ます同僚の男に苛立ちを覚える。
「じゃあまず、敬語はなしで」
さんはきょとんとした顔で僕を見つめる。
恋人なのに敬語はおかしいでしょう、と説明をすると納得したようで。
やや緊張した面持ちで頷いた。
「わかり……わかった」
「」
「―――え?は、はい!」
突然僕に名前を呼ばれ、さんは上擦った声で返事を返す。
「恋人のフリをするなら名前で呼ばないと」
そう諭すも、彼女は目を泳がせる。
「あ、もしかして僕の名前知らないかな?」
さんは大きく首を横に振る。
どうやら名前を知らない気まずさではなく、単なる照れ隠しのようだ。
「……と、とお、るさん……ですよね」
「さん、はなしで」
カウンター越しに彼女の顔を覗き込むと、面白いくらいに赤面していく。
一度深呼吸をすると意を決したようで、視線を逸らしながらぽつりと呟いた。
「……と、透」
「む、む、む、無理ーーーーー!!やっぱり私には無理ですーーー!!!」
さんは真っ赤に染まった顔を隠すようにカウンターに突っ伏した。
「からかってるでしょ、安室さん!」
顔を上げて残りのアイスコーヒーを一気に飲み干す。
「からかってなんかないですよ」
なんて嘘だ。
彼女の反応は思いの外、楽しい。
「本気ですよ、僕は」
少し真面目な顔をしてみせると、さんはたじろぐ。
これにはほんの少しの良心が痛む。
「……あーー!!お昼休み終わっちゃう!!」
突然さんは立ち上がり、腕時計を見ながら青ざめた。
「さん、名刺でも何でもいいので会社の住所が分かるものってあります?」
「あ、そうですね!名刺置いてきます」
慌てて引っ掴んだ鞄の中から名刺を一枚取り出す。
伝票に名刺と紙幣を挟み、お釣りはまた今度お願いします、と慌ただしく店を飛び出した。
さんのグラスを片付けていると、呆れた顔の小学生が僕を見上げる。
「安室さん楽しそうだね」
「楽しみだよ。彼女に言い寄る厚かましい男を完膚なきまで再起不能にするのが―――なんてね」
コナン君はオレンジジュースを一気に飲み干す。
お代わりは、と聞くとコナン君は首を横に振って、
「ご馳走様」
と告げて2階へ帰って行った。