「雨だ」
逢坂壮五は、思わず口にした。
不運な事に傘はない。
そういえば、天気予報で夕方から雨が降ると言っていた事を今更になり思い出していた。
今日は午後の講義は休講で、午前で帰る予定だったのだ。
ただ誤算だったのは、たまたま出向いた図書室で見つけた本が思いのほか面白く、没頭してしまった事だった。
予報では小雨と言っていたのにも関わらず、大粒の雨がコンクリートの地面を濡らす。
このまま待っていても止む気配はない。
諦めて濡れて帰る事を決意し、一歩足を踏み出そうとした、その時。
「逢坂くん、だよね」
「同じ学部の。だよ」
彼女は、壮五が覚えていないかもしれない可能性を予測したのか、律儀に名前まで告げた。
彼女―――とは挨拶程度しか言葉を交わした事はなかったが、顔と名前くらいは把握している。
大学は講義の選択は個人の自由であるが、学部というカテゴリでクラスというものは存在している。
とは言っても、選択した講義によっては全くと言っていい程、顔を合わせる機会がない者の方がほとんどだ。
壮五はあまり人と関わろうとしない為、尚の事だった。
むしろ自分を知る人間がいた事に驚いた。
「はい」
壮五が言葉を発する前に差し出されたのは一本の傘。
紺色の落ち着いた色に、白のドット柄の模様が、丁寧に閉じた傘から覗える。
「私、折りたたみ傘持ってるから、良かったら使って?」
そう言って鞄から明るいピンク色の折りたたみ傘を取り出した。
手元のデザインはカエルをモチーフにしていて、若い女性が好んで使いそうだ。
普通ならば折りたたみ傘の方を人に貸すのだろうが、可愛らしいデザインの傘を異性に貸すのは気が引けたのだろう。
「いや、悪いよ」
思わず出てしまった言葉に壮五は、はっとの顔を見た。
気を悪くさせてしまっただろうか。
どうして自分はこうも、人の親切を素直に受け入れる事が出来ないのだろうか。
親しくなり、自分が人より裕福な育ちだと分かると同時に、友人関係の均衡が崩れてしまう事も何度かあった。
親切の裏では何か、自分に求めてきているのではないかと疑ってしまうのだ。
大学に入学してしばらく経つが、人の輪の中に積極的に入る気も起きず、こうして一人で過ごす事が多いのはその為だ。
「気にしないで」
口を閉ざした壮五の様子をただの社交辞令の遠慮だと捉えたのか、は半ば強引に壮五の手に傘を渡した。
「ずぶ濡れの同級生の目の前で傘さして帰る方が、よほど感じ悪いじゃない」
は唇を尖らせる。
「逢坂くんが傘を二本持ってて、私が傘を忘れて困っていたら無視して帰る?」
「そ、そんな事しないよ」
「でしょ?」
狼狽しながらも傘を受け取った壮五には満足げに微笑むと、折りたたみ傘を広げ、雨の中へと足を踏み出した。
「私、アルバイトがあるから先に行くね」
「さん」
「なに?」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
「傘、明日返すね」
「いつでもいいよ!じゃあね」
そう言って彼女は足元が濡れる事を物ともせず、水を跳ねては慌ただしく去っていった。
小さくなる後ろ姿を見送り、壮五も傘を開き、足を踏み出す。
少し、雨足が弱まった気がする。
ひとつ、自分以外の誰かに大学で話かける理由ができた。
ただそれだけで、憂鬱な雨も、不思議と足取りは軽快になる。
(明日は晴れるといいなぁ)